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「持たないこと」について、ちょっとだけ考えてみる  ~無所有 法頂著~ [シッダールタ]

つい先日、自宅前に置いていた愛用の自転車をリサイクル業者
に持って行かれてしまいました。

ひどく錆びついててボロボロで、確かに他人様からすれば廃品
にしか見えないとは思います。
でも「こんなに汚くても年に数回は使いますので、絶対に処分
しないで下さい!」と不動産屋さんには念押ししていたのに。。。


無所有








いつもであれば、不動産屋さんや管理人さんにこの怒りを
思い切りぶつけ、「一体どないしてくれんねん!」などとゴネ
るところでしたが、ちょうどこの本(無所有)を読み始めていた
からか、今回はその気持ちを抑えることにしました。

本書 「回心記」より
『自分の心を思い通りにすることができるなら、私は何にも
 とらわれないのどかな仙人になるだろう。そうすることが
 できないため、あらゆる矛盾と葛藤の中で浮き沈みして
 いるのである。

 私たちが腹を立てたり胸を痛めたりするのも、よく考えてみる
 と外部からの刺激のためというよりは自分の気持を抑えること
 ができないところに原因があると思われる。

              (中略)

 本当に私たちの心というのは、全く微妙なものなのである。
 寛大なときはこの世のすべてを受け入れることができるようで
 ありながら、一度頑なになると、針一本刺す余裕もなくなるの
 だから。そんな一旦頑なになった心を入れ替えるということは、
 決して簡単なことではない。しかし、それが私の心であるなら、
 他でもない自分自身がうまく生かさなければならない。憤りの
 その火花の中から脱け出そうとすれば、外部との接触にも
 気を遣わなければならないが、それより自分を振り返り心を
 入れ替える日常的な訓練が先立たなければならないようだ。

 それゆえ、感情に左右されないで、自分の心の主人となれと
 昔の人たちは言ったのだろう。』

。。。”愛用の自転車”と言うのであれば、もっとキチンとメンテして
おくべきではなかったのか。「処分しないで」と言うだけではなく、
他にも自分でするべきことはあったのではないか。
等々頭に思い浮かべ、何とか心を落ち着けることができました。
(数日かかりましたが…)


本書 「無所有」より
『私たちは必要に迫られていろいろな物を持つようになるが、
 時には、その物のためにあれこれと心をわずらわすことになる。
 つまり、何かを持つということは、一方では何かに囚われると
 いうことになる。必要に迫られて持ったものが、かえって、私たち
 を不自由に縛ってしまうことになれば、主客転倒であり、私たち
 は所有されてしまうことになるのである。それゆえ、たくさん所有
 しているということは、普通、自慢になっているが、それだけ多く
 のものに縛られているという側面も同時に持っているということに
 なるのである。

              (中略)

 私たちの所有概念は、時には私たちの目をくらませる。それで、
 自分の分際さえも振り返ってみる間もなく、浮き足だってしまう
 ことになるのである。しかし、我々はいつの日にかは、何も持たず
 に土に帰っていくのである。自分のこの肉体さえ捨てて、サッサと
 去っていくのである。どんなに多くの物を持っていても、すべてを
 自分の思いどおりにできるものではない。

 たくさん捨てる人だけがたくさん得ることができるという言葉が
 ある。物によって心を煩わしている人たちには、一度考えてみる
 べき言葉である。何も持たない時、初めてこの世のすべてを持つ
 ようになるというのは、無所有のもう一つの意味である。』

。。。思えば、あの自転車が持って行かれることを心の何処かで
分かっていたようにも思います。「もしかしたら持って行かれても
しゃーないかな?」と漠然と考えていたことは否定できません。
こういうことを「縁が切れた」というのかも知れません。

今年3月に入寂された韓国の法頂禅師の書かれた「無所有」。
何気ない日常を描き出したエッセイの処々に珠玉の言葉が姿を
見せます。非常に読み易い文章ながら、心の奥に何か大事なこと
が染み入ってくるような感覚を覚えました。
韓国でロングセラーとなっている所以が分かる良書です。

今手にしているものを失ってしまう、あるいは手にしていたものを
手放してしまった時に心が乱れる(執着:しゅうじゃく)と苦しみを
感じます。しかしながらその執着を消し去ることは容易なことでは
ないことは御存知の通り。

上の文章(無所有)では「自分の肉体でさえも自分の所有物では
ない」と婉曲的に説いています。
ほぼ同時期に読んだ本に以下のような一文がありました。

 『われらは何物をももっていない。いとも楽しく生きて行こう。
 体を自分とみなす(見解に)とらわれることなく、喜びを食む者と
 なろう。』
 「ブッダの咸興のことば(ウダーナヴァルガ)」 第30章 楽しみ 五十 

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)









こういう境地に達することができたならば、生きていく上で「悩み」
や「苦しみ」というものから本当に解放されるに違いありません。

そういう私は今日もネットオークションで、古いギターを物色し、
自分の業の深さにおののきながらも、入札のボタンをクリックし続
けるのでしょう。


10月22日追記)
今日外出のために家を出ると、まるで家出ネコがひょっこりと庭に
姿を現すように、愛用の自転車が戻ってきていました。

せっかく思いを断ち切ることができたと思ったのに、まだ因縁という
ものが切れてはいなかったようです。
なんとも複雑な心持ち。

しかし改めてこの自転車を見ると、本当に汚く、ボロボロ。。。
せいぜい磨き上げてやらなければなりますまい。











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コメント 1

オム

韓国KBS・TVで放送した、法頂禅師の椅子というドキュメンタリを見ました。
この文を読みながらとても共感を感じました。
by オム (2012-10-20 08:09) 

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